EDT2015勉強会エネルギー①

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アースデイ東京2015「エネルギー・食と農・経済」テーマ勉強会

双頭の核とヒバクの歴史

講師:豊﨑博光

「エネルギ― #1」<前半>豊崎さん.jpg
「1930年代~1940年代:ウラン鉱石から「双頭の鷲」の始まりへ」
 ウラン鉱石は、地球が誕生した時に作られ、地中や海水に存在する鉱物のひとつで、世界中どこでも存在する。私たち人間が最初にウラン鉱石を発見したのは、18世紀である。当初の使い方は、陶磁器の絵付けをする時の釉薬、糖尿病の特効薬、歯磨き粉、蛍光剤など生活に密着した使い方をしていた。
 ウラン鉱石を科学的に利用することの始まりは、最大で0・7%しか含まれていないウラン235という放射性物質に中性子線をあてると核分裂を超すということの発見からである。この結果から、アメリカは、1942年8月、原爆製造計画・マンハッタン計画を始めた。核分裂の連鎖反応については、イタリアからアメリカに亡命したエンリコ・フェルミという科学者が、1942年12月にシカゴ大学に作った原子炉で証明した。原子炉で核分裂の連鎖反応の制御に成功したとことは、原爆の製造が可能になったことを意味した。アメリカに亡命した科学者レオ・シラードは、アインシュタイン博士を通して第32代大統領ルーズベルトに、原爆製造計画の開始を提言した。アメリカは、この提言と核分裂連鎖反応の成功によって原爆製造に進んでいった。
 当時(1930年代~1940年代)の主なウラン鉱石の採掘場は、チェコスロバキア、カナダ、アフリカとアメリカの4カ所だった。アメリカでは、原爆製造計画が始まると、ニューメキシコ、アリゾナ、ユタ、コロラドの4州が交差するフォーコーナーズ地域、先住民族のナバホやプエブロの人びとの居住地で始まった。採掘労働者のほとんどは先住民族ナバホの人びとだった。彼らは、ウラン鉱石の危険性を知らされず、採掘時に棄てられた屑石を使って家を建てた。ナバホの人びとは石づくりの家が伝統的な家であった。すなわち、彼らは、採掘場で被ばくし、家でも放射線をあび続けていた結果、肺ガンなどに罹った。
 現在、ウランは世界の18カ国で採掘されている。日本は、ウランをアメリカ、カナダ、オーストラリア、カザフスタンなど11カ国から全量を輸入し、原発の核燃料を作っている。ウラン鉱石は、文化的な利用の始まりから、科学的な利用を発見したことで「双頭の鷲」が誕生することになった。

「1953年~1954年:ついに「双頭の鷲」誕生」
 原爆は、ウランを採掘した後、精錬という工程を通って、ウラン235を90%以上に濃縮したもので作られる。商業用原子力発電の核燃料は、ウランを3%~5%くらいに薄めるて作られる。ウランが1%~2%のものはプルトニウムを作るための原子炉の核燃料に使われる。原爆は、濃縮ウランとプルトニウムを使って作られる。アメリカが、1945年8月6日と9日に広島と長崎に原爆を投下したが、広島に投下した原爆はウランで作った原爆である。長崎に投下したのは、プルトニウムで作った原爆である。広島、長崎への原爆投下は、世界が核の時代に突入してことを意味した。
 広島に投下された原爆は、原爆ドームのやや右上、上空約560mのところで爆発した。爆発した瞬間、太陽の表面温度とほぼ同じ温度、約8000度の熱が放出された。この時の様子は、「広島に2個の太陽が現れた」といわれた。その意味は、爆発時間の夏の午前8時15分に輝いたギラギラした太陽と、もうひとつ、太陽の表面温度を持つものが現れたということである。原爆の爆発が生みだした約65%の熱と、20%の爆風と衝撃波によって、広島と長崎の町は一瞬にして灰になった。残りの15%は放射能・放射線である。放射能は埃に付くことで放射性降下物となり、風にのって広範囲に飛び散ることで被ばく被害を広げた。
 アメリカの陸軍長官ヘンリー・スティムソンは、広島への原爆投下の翌日の1945年8月7日付のニューヨーク・タイムズ紙で原爆開発の理由についての声明を発表し、そのなかで、核分裂の熱を使えば平時には動力源、発電源に利用できる、ということを公式に書いている。しかもスティムソンは、今回は核分裂によるエネルギーを原爆という軍事用に使ったと書いている。朝日新聞は、8月8日に、「新型爆弾投下さる、被害は目下調査中」という見出しで、知っていながら原爆という言葉を一切使わなかった。軍の命令で使えなかったのである。終戦の翌日の8月16日の朝日新聞で、かつて日本の原爆製造計画を担った仁科芳雄博士は「広島に落とされたのは原爆である」とする声明を発表し、初めて公式に「原爆」と書いたのです。
 同じ日の朝日新聞で、スイス特派員が書いた記事では、スウェーデンの科学者の話として「原爆の技術的完成は、原子力が石炭、石油にとって代わる新たな時代の到来を告げた」と紹介している。このことは、まさに、原子力が原爆と動力源の2つの利用という「双頭の鷲」であることを示している。この後に、第34代のアメリカ大統領に就任したドワイト・アイゼンハワーは、1953年12月8日、国連で「平和のための原子力」(Atoms for Peace)とよぶ演説を行い、原子力の動力源や発電源への利用を推進した。その翌年、1954年2月、アメリカは、世界で初めて動力源に原子炉を積んだ、原子力潜水艦ノーチラス号を進水させた。そして、原子力の平和利用は、原子力発電の始まりとなった。「双頭の鷲」とは、一方で核兵器を作りながら、もう一方で動力源、発電源に使うことである。

「1952年~1953年:原爆から水爆の時代へ」
 1950年代初め、世界は、広島、長崎へ使用した原爆の時代から、原爆の威力の1000倍余りの威力をもつ水爆の時代への突入していった。水爆は、アメリカの科学者エドワード・テラーによって可能になった。1952年11月、アメリカはマーシャル諸島のエニウェトク環礁で世界最初の水爆「マイク」を実験した。9カ月後の1953年8月、ソ連もカザフスタンにあるセミパラチンスク実験場で最初の水爆実験を行った。翌年の1954年3月1日、アメリカはマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆「ブラボー」の実験を行い、ビキニの東約160キロで操業していた焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員がその放射性降下物で被ばくした。同じ被害は、「第五福竜丸」の操業地点からやや南東にあるロンゲラップ島の住民82人にもおきた。福竜丸の乗組員とロンゲラップ島の人びとが放射性降下物でうけた火傷の症状は、放射性降下物の放射能によるベータ線やガンマ線によるもので、その火傷は、体に付ける携帯用カイロによっておきる低温火傷に似たもので、皮膚の表面を焼くのではなく体の組織を焼くのである。火傷の箇所は、もっとも汗をかきやすいところで、首の回りやわきの下などである。その放射性降下物はロンゲラップ島では約4センチ積もった。
 水爆実験の被害について読売新聞は、1954年3月16日付で「邦人漁夫、原爆実験に遭遇」という見出しで伝えた。この年、読売新聞は、1月1日から「ついに太陽をとらえた」という記事を、原子力の平和利用キャンペーンとして約1か月間、連載していた。内容は、アメリカの資料をそのまま日本語に訳したというものだった。当時、読売新聞の正力松太郎社主は総理大臣になろうとしていた。アメリカのCIAの暗号名を持っていた正力社主は、アメリカから原子力発電を導入して大臣になろうとしていた。読売新聞は原子力の平和利用キャンペーンを進めている時に水爆実験による福竜丸被ばく被害が生じたため、後の紙面では「原子力を悪い方に使えば核兵器になるが、良い使い方をすれば発電源になる」という記事を書いて平和利用を強調した。読売新聞は、原子力の平和利用キャンペーンとして翌1955年5月に、アメリカの原子力発電の関係者をよびよせて、日比谷公会堂で大講演会を開き、それを日本テレビで中継放送した。この当時の日本では、テレビではプロレス中継が流行っていた。原子力エネルギーの平和利用の推進は、読売新聞と日本テレビがネットワークを使って広げられていった。「第五福竜丸」乗組員の被ばく被害がおきた時、1954年3月1日、のちに総理大臣となる中曽根康弘衆議院議員などが駆け込みで原子力予算案を提出し、2億3500万円の予算を国会で成立させた。この原子力予算の2億3500万円という数字は、核分裂をおこすウラン235と同じとされた。この時が、日本の原子力エネルギー利用の始まりとなった。この日本への原子力エネギー導入に関する一連の動きは、アメリカの戦略のひとつであったことは明らかとなっている。
 というのは、原子力の平和利用を進めたアイゼンハワーを1953年に第34代アメリカ大統領に押し上げたのは、アメリカの軍事産業と原子力産業だったからである。軍事産業、原子力産業とは、原爆製造計画・マンハッタン計画に関わった企業である。アイゼンハワー政権は、1953年12月に「アトムス・フォー・ピース」の演説をして原発への流れを作ったが、その後ろには原子力産業界がついて、原発を世界にどのように売り込もうかということを考えていた。日本は、そのアメリカの世界に原発の普及させる計画に乗ったのである。ソ連もスターリンなどが、アメリカと同様に原発を同盟国に売り込むことを考えていた。アメリカとソ連が原発を売る目的は、核燃料もアメリカとソ連が作り、売る、つまり、いつまでもつなぎとめることができるからである。アメリカが、アジアで原発売り込みのターゲットとしたのは日本と韓国であった。韓国では、1950年代、原子力発電について正確に理解できる人は誰もいなかったという。当時の韓国メディアの東亜日報や朝鮮日報などは、日本の新聞と同様に、原子力発電についての記事は、アメリカの記事をそのまま訳して書いていたという。

「1956年~1957年:大気圏内核実験による影響」
 1950年代中ころ、アメリカ、ソ連とイギリスの3国による原爆と水爆の大気圏内核実験が頻繁に行われた。大気圏というのは、地上、水中、空中を指す。大気圏内核実験は、放射能降下物を世界中に拡散するため、この時期、世界的な問題となった。
 大気圏内核実験で生みだされた放射性降下物は、風に流されて遠方に運ばれる、また、高空に吹き上げられたものは長い時間をかけて地上に降り落ちる。地上に降り落ちたものは牧草に吸収される。その牧草を牛が食べると、牛乳に放射性降下物が入り、のちに人間の体内に吸収される。放射性降下物は別名〝死の灰〟とよばれる。〝死の灰〟という言葉を最初に使ったのは読売新聞である。
 大気圏内核実験の中でもっとも大きな被害を及ぼしたのは、アメリカが、1954年3月1日~5月14日の約2カ月間、マーシャル諸島のビキニ環礁とエニウェトク環礁で行った6回の水爆実験である。合計爆発威力は、アメリカが広島に投下した原爆で換算すると約3200発分に相当した。6回の水爆実験の放射性降下物が世界中に広がったことは、当時、アメリカが世界の122カ所に設置した放射性降下物を感知、測定する装置で明らかになった。
 放射性降下物の感知、測定装置は日本では青森県の三沢、東京の横田の米軍基地の中と、広島、長崎の原爆傷害調査委員会(現、放射線影響研究所)の敷地内4カ所に設置された。アメリカによるマーシャル諸島ビキニ環礁などでの水爆実験の影響は、5月16日以降、日本全国にみられた。東京と京都に降った雨の中から、何万カウントという放射線が検出された。雨の中に〝死の灰〟が入っていたのである。この時、1954年、日本全体が初めて、これまでの広島と長崎という点ではなく、面として広範囲に被ばく被害をうけたのだった。

「1954年~1956年:世界初の原子力発電が誕生し、世界に広がる」
 アメリカの水爆実験の放射性降下物で世界中が被害をうけていた1954年6月、ソ連が原子力発電を始めてモスクワ郊外のオブニンスクの町全体の電力をまかなった。イギリスでは1956年、コールダーホール型という独自の原子炉の運転し、発電を始めた。アメリカは、潜水艦に搭載できる原子炉は持っていたが、商業用の発電用原子炉は持っていなかった。
 当時の原子炉の目的は、使用済み核燃料から核兵器製造用のプルトニウムを取り出すことで、発電は二の次だった。ソ連の原子炉は、後に事故を起こしたチェルノブイリ原発と同様に黒鉛型炉で、格納容器がない原子炉だった。後にアメリカが製造し、世界に売り出した軽水炉型原子炉は、普通の水を冷却材に使うもので、格納容器の中に原子炉を入れたものである。アメリカの同盟国への原子炉の売り込みは、最初に大学などに研究用原子炉を核燃料付きで送ることから始めた。日本にもその方式で原子炉の売り込みを行った。

「原子力発電の燃料」
 商業原発の核燃料はペレット状に焼き固められたもので、1個は長さ、直径が約1センチで、長さ3~4メートルほどの燃料棒の中に300個詰められている。その燃料棒がひとつに束ねられ、何束かのものが原子炉の中に入っている。
 日本は、ウラン資源がないために、世界の11カ国から発電用原子炉のウランを買って、茨城県東海村と大阪府、泉南などで核燃料を製造している。東京に近い所では神奈川県の横須賀市で核燃料を作っている。完成した核燃料は、一般の運送用トラックの前後にパトロールカーがついて夜中に運ばれる。横須賀から新潟県の柏崎刈羽原発への核燃料の輸送は、午前3時から4時の間に首都高を通って行われる。その時間は、ちょうどガソリンを運ぶトラックも一緒に走っているため、とてつもない事故の可能性と隣り合わせである。
 核燃料1個は、石炭にすれば約1780ポンド(1ポンドは約450グラム)、石油にすれば約149ガロンのエネルギー量に匹敵する。別な言い方をすれば、ペレット1個で、4人家族の1年分のエネルギーがまかなえるといわれる。
 約9グラムの核燃料ペレット1個を作るためには、ウラン鉱石を約60キロ採掘しなければならない。59キロは途中の過程で棄てられる。私たちの原子力は、このようにして動いている。

「原発事故から地域の文化が消える」
 アメリカ、ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所は、理論的にはあり得ても多分起きないとみなされていた炉心溶融事故を1979年3月28日に起こした。事故で放出された放射能は北西方向に流れたため、のちに原発の北西地域で多数のガン患者が生みだされた。この結果、原発周辺の被害者たちは、損害賠償訴訟を起こしたが、負けてしまった。理由は、電力会社と州政府が放出された放射能は少ないと主張し、住民側は病気との因果関係を証明できなかったからであった。しかしスリーマイル島原発事故は、世界に対して、原発が本当に必要かどうかを問うきっかけになった。
 もうひとつの原発事故は、1986年4月26日にソ連のウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故である。放出された放射能で高濃度に汚染された地域では、住民全員を追い出して、無人となった家を解体すると放射能が埃となって飛び散るため、家を丸ごと、村ごと他のところから運んできた土で埋め、消していった。ウクライナと西隣のベラルーシでは、汚染された数千の村が消された。しかし、幹線道路だけは、生活物質の流通などのために残されている。森は、野イチゴやキノコ、薪の木をとるなど、地元住民の暮らしと文化と密接につながっている場所である。しかし事故後は、その場所は、放射能汚染のために立入禁止となっている。
 日本政府は、チェルノブイリ原発事故の現場は8000キロ以上離れているので被害はないという見解を示した。しかし、放出された放射能(〝死の灰〟)は、事故から1週間後に大阪の有機栽培のお茶の中から検出された。
 チェルノブイリ原発事故の放射能は、最終的には地球全体を汚染した。チェルノブイリ原発から遠く離れた地域でひどい汚染をうけたのは、スウェーデンとノルウェーである。両国には先住民族のサーミとよばれる人びとが、トナカイの放牧で暮らしている。トナカイの肉を食べて暮らしてきたサーミのたちは、事故後、それまでのような暮らしができなくなった。親と子どもが違うものを食べなくてはいけないことになった。親は、伝統的な食生活としてトナカイの肉を食べ、子どもにトナカイの肉の味を覚えてもらって伝統を繋いでゆくのが役目である。しかし、チェルノブイリ原発事故の放射能でトナカイのエサの草などが汚染されたため、子どもはトナカイの肉ではなく、別のものを食べなくてはならなくなった。このままでは、サーミの次世代の人はトナカイの肉を食べなくなる。このことは、サーミの文化や伝統が消えることを意味する。

「福島第一原発事故の汚染から、これからのエネルギーについて考える」
 福島第一原発事故は日本のみならず、地球全体を汚染した。事故で放出された放射性ヨウ素は、3月15日までにアメリカ西海岸に達し、その後は北上し、3月27日ころまでにはグリーンランドからヨーロッパのほぼ全域に達した。4月に入ると放射性ヨウ素は南下して、オーストラリア、フィジー、インドネシアなどに到達した。
 これまで、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスと中国の5カ国が1945年~1980年に行った500回以上の大気圏内核実験で成層圏まで吹き上げられ、降り落ちた放射性降下物で地球全体が覆われた。そのほとんどは、地球の3分の2をしめる海に降り落ちた。もっとも多くの放射性降下物が降り落ちたのは太平洋で、それは、千葉県沖から北海道の東海岸の海域にいまなお残っている。これに、2011年3月11日以降は、福島第一原発事故で放出される放射能汚染水が流入し、太平洋全体が放射能に汚染され続けている。
 核の歴史を振り返ると、核は「双頭の鷲」であり、核兵器も原子力発電も核被害を引きおこし、生存を脅かしている。私たち人間はいま、1939年に発見された半減期が2万4000年という放射能汚染のまっただ中に暮らしている。エネルギー問題を考える時、核、原子力を考える時、それらが「双頭の鷲」であることなどと共に核開発全体の流れをよく理解することから始める必要がある。